2015年5月3日日曜日

在りし日の思ひで《4》

マラソン大会の翌日、僕らは先生に呼び出されました。廊下ですれ違うだけでも瞬時に阿修羅へと変身する彼ですから、どんな顔で僕らを待っているのかと思うと自然に足が急ぎました。職員室のドアを開けると、彼は腕組みをして僕らを待っているようでした。比喩でもなんでもなく、今まさに僕の残り二年の高校生活が決定されようとしているのです。僕らは彼のもとに駆け寄りました。

ーー近寄った彼が、どうやら目を閉じているとわかった時に、僕らは一同戸惑いを隠せませんでした。居眠りか?誰もがそう思った時、彼はゆっくりと目を開けました。彼は、瞑想していたのでした。
彼の顔には、もはやあらゆる感情の昂りが陰を潜めていました。彼は、夢を見ているかのような面持ちで話を始めました。
曰く、今回の結果(言い忘れていたので補足すると、僕ら進学クラスは、合計得点で並んでいた隣のクラスに、入賞者の数で勝っていた為に見事学年優勝を果たしました)は、お前たちのバスケをしたいという想いが起こした「奇跡」だ。おれは、バスケの神様の存在を信じてる。彼がきっと、お前らの情熱に応えてくれたんだ。
よく見ると、彼の目は僕らではなく、もっと遠くを見つめているようでした。正直、僕はいささか拍子抜けの思いがありましたが、まあ仕方がない、戻れっていうなら戻ってまた頑張ろう、という気持ちでいました。
するとその時、突然彼の目が僕を捕らえました。そして残念そうな顔をして僕を見つめ、僕の名前を呼んで言いました。
「おまえの今回の頑張りも、俺はよく分かってる。でも、今回の奇跡は、残念ながらおまえのものではない。よって、申し訳ないが、お前を部に戻すことはできない」

その時の心情は、控えめに言っても「意味不明」でした。この人は一体、何を言っているのか。もしかしてこの人は、本気で奇跡がどーのこーのと言っているのか。だとしたら、もしかして、今抜けておくのがやっぱりベストなのではないか……

職員室をでて、みんなは僕をしきりに慰めてくれましたが、僕はむしろ彼らを慰めてあげたいくらいの心境でした。ふと顔を上げると、廊下にはどこからか聞こえてくる、生徒同士の笑い合う声が無数に反響しあっていました。こんな風に、何気ない日常が僕の中に流れ込んできたのはいつ以来だろう。僕は体育館で過ごした年月を数えようとして、やめました。それから、もう二度と僕がバスケットシューズを履いて体育館の門をくぐることはありませんでした。(実はその後も、同期や先輩に促されて、何回か一人先生の元に話をしに行きましたが、毎回毎回「奇跡を起こしてから来い」の一点張りで、次第に皆も僕の復帰をあきらめ始めました。)


バスケという僕の高校生活の柱が抜けてしまい、僕は抜け殻のようになって二年生の春を迎えました。心の中にぽっかりと空いてしまった溝を埋めるために、ギター買ってみたりもしました。そんな春のある日、僕の担任の英語教師が僕に寄ってきて、二枚の紙を手渡しました。そこには「入部届け」と「部長承認届け」と書いてあり、それぞれの空欄にはすでに僕の名前が書き込まれていました。そして部活名の欄には、「アメリカ研究部」とあります。
話を聞くと、どうやらそれは、各教師が必ず一つの部活あるいは同好会の顧問をしなくてはならない、という規則からの隠れ蓑として担任が保ち続けてきた名ばかりの同好会のようでした。きくと、部費はもらえない、部室もない、活動も未定。僕はその書類にサインをしながらふと思いました。そうだ、勉強をしよう、と。そうでないと、せっかくの自由な時間が無駄になってしまう。その時ふと、体育館からみんなの声が聞こえたような気がしました。僕は一瞬体育館の方を見て、それから向き直りました。こうして僕は、アメリカ研究部部長兼副部長になりました。そして、僕の長い受験生生活がようやく始まろうとしていたのです。






ずいぶん長くなってしまいました。こんな話興味ねえよ、という方、大変申し訳ありません。リレー日記を長らく止めてしまったことへの僕なりの罪滅ぼしと考えてください。次は、待望の新入生紹介!先ずはポルトガル語科スイマーの、竹内宗之くん、お願いしまーす!

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